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2/19 風流のわかる男

2/19 風流のわかる男

2/19 風流のわかる男

2/19 風流のわかる男

2021年になって一ヶ月経ちました。時間が経つのは早いですね。仕事でもそれ以外でも、時間は濫費できないとつくづく思います。

 職場で今年の目標の話になったときに、風流の理解出来る人間になりたいみたいなことを私が言ったので周囲からはキョトンとされました。アレは発言が唐突すぎました。風流が理解出来るという表現は語弊があって、正しくは風情があるとでも言うんでしょうか。風流なとか、風情があるとか、雅致とかいう呼ばれ方は、別に古きよき日本の文化を知っている人限定じゃなくて、個人的には、日常生活の中で、他の人が普段なら見過ごしてしまうものをふと視界の端に見つけて、そこに美しさを感じることの出来る(そして出来れば何らかの作品に仕上げる)鋭敏な感覚の持ち主に相応しいと思います。修学旅行で京都の龍安寺に行きましたが、あの有名な石庭は、それ自体の美しさというより、桜とか、紅葉とか、雪とか、季節の諸要素を一層引き立つように構成されているものと思われます。

 そうなると、せっかく柳川市にいるのに、私は全く風流ではありません。私はスマホとかコンビニとか浴室乾燥機とか現代の利器にどっぷり依存しているからです。強いて言うなら、「職場の教養」という毎朝の朝礼で読み上げる小冊子で、自然のことについてしちくどいくらいに取り上げられるので、その時だけほんのちょっぴり思い出します。で、三分くらいで忘れます。いや、生活力がないので多少文明の利器に依存するのは仕方ないにしても、ほんのわずかでもその、鋭敏な感覚を忘れないようにしたい。夏の仕事帰りに道端でタッタ一本だけ、真っ赤な彼岸花が咲いていて、暑い中で、構図とかに拘りながら写真を撮ったことがありました。これは一種の子供心みたいなもので、周囲から見るといい年して何やってんだと笑われるでしょうが、心の中のその部分が完全に死んでしまうとどうなるでしょうか。子供の頃には楽しめたものが楽しめなくなる、感受性の摩耗とでも言うべきか、22歳の今ですらそんな寂寥感を感じることがあります。

 

 ぼくは野の仏になるんですよと

 高節くんが言う

 だけどこんないい男ではと

 顎などなでながら

吉田拓郎『野の仏』

 

 サーフミュージックなんて

 ブルジョアの BGMさ

 そう言いながら デビューもせずに

 3度目の 結婚記念日

浜田省吾&The Fuse『プールサイド』

 

 シャックリママさんお洗濯

 洗剤値上がり止めたいけれど

 まずはこのシャックリ止めて

 

 シャックリママさん庭掃除

 箒抱えて歌唄う

 背中で鳴ってるトランジスター・ラジオ

大滝詠一『シャックリ・ママさん』

 

 上に歌詞が3つあります。舞台背景も趣旨も全く異なります。共通点を言うなら、起承転結のない、日常の風景を描いていて、ラブソングに特有の、波乱とか、惚れた腫れたのやり取りがない。

『野の仏』は、「高節くん」と二人でのんびりと釣りをしている情景の中で出てくる言葉ですが、わかりやすい解釈をすれば、「自然を慈しみ」「自然の中で死ぬ」人間の姿を描いています。吉田拓郎は70年代前半にフォークソングの寵児となり「和製ボブ・ディラン」と言われた人ですが、そのせいか「風に吹かれて」の系譜を引いているような気がします。

『プールサイド』は、カップルのプールサイドでのやり取りを描いています。中身は特にありません。ひとつわかるのは、浜省はサーフミュージックが嫌いそうな雰囲気を出していますが、間違いなく嘘です。歌詞にはトルストイとか、ベースギターとか、ボストンメガネとか、バブルっぽい、やたらとハイソなアイテムばっかり出てきますが(あんな分厚い本を水場で読んでどうするの)、常に一定のリズムのままで、もうすぐ結婚記念日であることを歌っているだけ。ですが、当たり前の事象を、どうしてここまで美しい曲にできるのかと思います。

『シャックリ・ママさん』は、家事する奥さんの姿を戯画的に描いています。もともとナイアガラムーンというアルバム自体が大瀧詠一の趣味全開で、イロモノ曲の集合体です。家事という芸術から最も遠そうな、世間一般の旦那なら多分見逃すであろう一場を、コミックソングにまで昇華しています。

 三曲とも、骨子こそ違いますが、煩瑣な日常生活から一滴の“美”を掬いとっている点では同じです。私は別に芸術に携わっている人間ではないので、仕事上の実用性という観点からは特に意味はないような気がしますが。しかし、自然を慈しむということは日常を愛することであり、「こうなりたい」「こうしたい」というふうに非日常を渇望する自分から少し離れて自分の少しだけ近辺を眺めてみることは、ありのままの自分を見つめることにつながると思われます。いくら遠くに自分探しの旅に出かけたって、結局自分というものは自分の脳みそと生活空間の中に大部分を占めている。自分と、自分以外のものは、対極ではなく、写し鏡で同じである。そんなことを感じさせてくれるかもしれません。