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ブログ6/15 就活生に向けて、一年先輩から

ブログ6/15 就活生に向けて、一年先輩から

 多様性とかグローバリズムとかいった言葉は近年魔法の呪文のようにやたら慫慂されていますが、深く考えていなければこれほど恐ろしい言葉はありません。自分が誰かに受け入れられるためには自分が誰かを受け入れなければならないわけで、皆それは面倒臭いのです。当たり前ですが、職場で言われる多様性とは、会社に、新しい視点からの発想、利益、教訓を齎すための多様性であって、当社はどんな奴でも受け入れられますよという多様性ではありません。いくら企業が主張する多様性という言葉に安心したって、変な奴は落ちるし、受かっても飲み会では何か変じゃない奴を喜ばす一芸を持つことを要求されるからです(勿論それが悪いというんではありません)。企画営業課のMは、自分のような奴が社会的に悪玉菌だということをある程度自覚していたんですが、いざ就職活動に向けて自己PRを考えるとき頭を抱えてしまいました。自分の生活には光を当てられない後ろ暗いことが多すぎるからです。よい子の皆さんは、人様に胸を張ってアピール出来る健全な趣味をしっかり持ってて下さい。

 何にせよこの時期になると「自分」というものと嫌でも向き合わなくてはいけません。履歴書に書くかどうかは別として、私は自分がどういう人間なのかえらく悩んだ気がします。自分(=人格?)とは要するに自分が自分ではない他のものだと思っている以外の部分を全て包摂したものか、単にこういう行動をして来たという歴史だけを言うのか。何でこんな奇天烈な悩み方をしているのかというと、イングランドの哲学者デイヴィッド・ヒュームの『人性論』を偶々読んだからです。その主張を掻い摘んで言うと、皆さんが就職活動で散々悩む「自分」について、そんなもんはないと言った人です。

 近代に入ると、理性を重視する大陸合理論(仏が主流)と、経験を重視するイギリス経験論(英が主流)に哲学の潮流が分岐します。前者は生まれつき人間が観念を持ち合せておりそれに従っているとすること(生得観念)、後者は人間は空ッポの状態で生まれて来るとすること(ロック曰く「白紙」)で、D・ヒュームはその極北に位置します。経験主義ということはつまり、人間は「暑い」とか「痛い」とか「美味しい」とか、もうちょっと複雑でしょうが繰り返し経験(知覚)を続けていく存在であり、極端な言い方をすると、人間の自我というものは経験の奔流をうける容器、そのような「知覚の束」が大凡100年間入ったり出て行ったりする「舞踏場」に過ぎないということを主張したわけです(『人性論』)。もし生まれつき盲目の人がいたら“青”の概念が理解出来ないので、もしこの知覚が全然なかったら自我も構成しようがないというので、経験が理性より上に来ます。

 経験が重要とはいえ吾々が「自分」だと思っている部分まで否定し出したのはヒュームくらいで、同じく経験論の泰斗であるジョージ・バークリも「自分に見えない物はこの世に存在しない」と経験論の究極みたいなことを言っていますが、その存在を感覚するためには当然自我を想定しています。そこまで否定してしまったらもう何が残ってるんだと一般人の吾々は思うわけですが、しかし一方では、人間は変化をし続けることが出来る動物だと、こういう考え方も出来ます。

 変化を忘れた人間は死んだも同然です。自分のキャラがハッキリしているタイプの人は、自分の言動、趣味嗜好に型を嵌め、いつの間にか自分自身に縛られていることがあります。なので、自分はこういう人間だから……をやらない、興味を持たない、触れようともしない、というのは、私はやめています。ヒマなら試します。二年後にはどハマりしているかもしれません。最近飲み会が少し楽しく思えて来たことは、中高生の自分ではありえない。自分がどういう奴かなんて、あまり判りきったように言いたくないのですね。

 自我は流石に存在するとしても、そこに絶対的な価値観なんてありません。誰かの趣味には「何がいいんだろう」ではなく「何故興味を持つんだろう」です。周囲の人たちが内定を取り始めて何であんな奴が先にと焦るかもしれませんが、彼には多分あなたには理解できない魅力があるんでしょう。それに興味を持って下さい。で、あまり自分の自我、キャラを早く決めすぎないようにして下さい。

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